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2018.08.02

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追悼・橋本忍

2018年7月19日に脚本家の橋本忍さんが逝去されました。
日本の戦後映画史において、もっとも有名な脚本家と言っても良いかと思います。また、映画制作における脚本家の地位向上にも尽力された方です。
ざっと橋本さんが執筆された映画の代表作を並べてみるとその凄さがわかります。

 ・『羅生門』(1950年)
 ・『生きる』(1952年)
 ・『七人の侍』(1954年)
 ・『真昼の暗黒』(1956年)
 ・『張り込み』(1958年)
 ・『隠し砦の三悪人』(1958年)
 ・『コタンの口笛』(1959年)
 ・『ゼロの焦点』(1961年)
 ・『切腹』(1962年)
 ・『白い巨塔』(1966年)
 ・『日本のいちばん長い日』(1967年)
 ・『日本沈没』(1973年)
 ・『砂の器』(1974年)
 ・『八甲田山』(1977年)
 ・『八つ墓村』(1977年)
 ・『私は貝になりたい』(1959年/2008年)
 (※年は公開年。共同脚本も含む)。

ざざっと書き出してみましたが、いかがでしょうか?
壮観の一言です。
薬師丸ひろ子さん並みに「ソ・ウ・カ・ン!」と言えるんじゃないでしょうか。
上記は今なお語り継がれる名作を16本抜粋しましたが、まだまだあります。wikipediaなどを見るわかりますが、なんと1年間に執筆した映画が5本公開されている年もあって驚愕します。
とにかく多作、そして1本ずつの質がお世辞ではなく後世に残る超ハイレベル。

ここからは個人的な話です。
私が本格的に映画の勉強を始めたのは、1浪して日本大学芸術学部に入学した19歳の時でした。
監督コースという専攻だったのですが、
「監督は脚本も書けなければいけない。脚本家が書いた脚本を読む時に、自分で執筆した経験が生きるからだ」
という教授陣の教えがあり、1年の時から脚本の授業も必須科目でした。
学校ではプロとして活躍する脚本家の方に教わっていたのですが、帰宅してからの独学の時にまず触れたのが橋本忍さんの脚本でした。
『七人の侍』などの名作は脚本も出版されていたので、脚本を読んでから、VHSで本編を観て、さらに絵コンテに起こす、というような作業をして、映画の基礎を学んでいきました。
すると、文字で書かれた脚本がいかに映画の基盤であるかがよくわかったものです。同時に、一般の観客の目には触れず、キャスト・スタッフしか読まない脚本であっても、文体やリズム感、映像喚起力といったものがいかに重要であるかも自然と理解できるようになりました。

商業映画をやるようになってわかったのですが、監督やスタッフにとって脚本は建築物の設計図、俳優にとってはラブレター、プロデューサーや出資者にとっては資金を出すかどうかの試金石。そして、もちろんまだ観ぬ映画への道しるべとなるのが、脚本。
橋本忍さんの脚本はとにかく読みやすく、でも深い。監督にもスタッフにも俳優にも、「ここは大事だからな。映画の肝はこれだぞ」というのがよくわかる。
残念ながら生前お会いすることは叶いませんでしたが、もし脚本作りに関して私淑した方を一人だけ挙げろ、と言われたら、私にとっては間違いなくそれが橋本忍さんでした。

また、橋本忍さんには「複眼の映像−私と黒澤明」(文藝春秋刊)という名著があります。
戦中から戦後にかけて、橋本さんがいかにして脚本家になったか、その後、黒澤明という映画監督と出会って数々の名作をどう作ったか。そういうことが赤裸々かつ力強い文章で書かれた、本当に素晴らしい本です。
特に、『七人の侍』が生まれていく過程の、黒澤明、小国英雄、橋本忍という三人の戦い方には戦慄します。
年下の橋本さんがまずゴリゴリ書き、原稿を受け取った黒澤監督が直し、小国英雄は一文字も書かずに外国の本を読んでいて、回ってきた原稿をチェックする。旅館に何週間もこもってこの作業を続けて、生まれたのが『七人の侍』です。

この共同執筆スタイルは大学時代、脚本を学んでいた友人らとよく話題にしたものです。(一時期、本メルマガの大川編集長、カット職人・林くんと一晩だけ秩父の宿で真似しようとしました)。
脚本家には優れた自伝がいくつかあるのですが(笠原和夫、新藤兼人、鈴木尚之 etc)、もし、1冊だけ、と言われたらこの「複眼の映像ー私と黒澤明」を推薦したいと思います。そこらへんの文豪にも負けない、いや、もしかしたらもっと面白い、そんな執筆秘話です。
橋本さん死去の報に触れてから読み直しましたが、やはり非常にタメになる。そして、言葉につくせない勇気をもらえる。

最後になりますが、橋本忍という脚本家について短い私論を。


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