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2019.03.25

SR サイタマノラッパー

『SRサイタマノラッパー』10周年に寄せて

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※ このテキストは、入江が毎週発行している映画メルマガ<僕らのモテるための映画聖典メルマガ>巻頭エッセイから、一部抜粋して掲載しています


こんにちは、入江悠です。
春は、出会いの季節であり、別れの季節でもある。
近頃、私のまわりには別れが連続して続いており、ちょっと落ち込んでいます。
……と、その前にひとつだけ誇らしいニュース、というかご報告を。


今月は、<『SRサイタマノラッパー』公開10周年>
池袋シネマ・ロサで一般のお客さんに向けて『SRサイタマノラッパー』が初上映されたのは、2009年3月。

当初は2週間限定のレイトショーの予定だったと思いますが、初日・2日目と満席が続き、支配人の決断で3週間の上映が決まったのでした。
今や『カメラを止めるな!』の聖地になっているシネマ・ロサですが、あの頃は、『SRサイタマノラッパー』の聖地でもありました。
他に、自主映画を上映してくれる映画館自体なかなかありませんでした。

おかげさまで、あれから駒木根隆介、水澤紳吾、奥野瑛太といった面々は俳優を続けており、上鈴木伯周もラッパーとしての活動を広げています。
私自身も同様で、なんとか10年生き延びた、という気がします。

さて、そもそもこの「僕モテ」メルマガは、その前身が『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』製作時の、「週刊!SRメルマガ」です。
当時、制作費不足に悩んでいた私たちは、「クラウドファウンディングとか募金は嫌だから、毎週それぞれが連載を執筆して、その対価として得たお金を制作費の足しにしよう」と始めたのでした。
それを取りまとめてくれたのが、唯一出版界のプロだった現・大川編集長。

その後、『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』の上映活動も落ち着き、皆はそれぞれのフィールドへ羽ばたいていき、粘り強く毎週連載を書き続ける者だけが残って、今もこうして毎週メルマガを発行し続けることになりました。
さらに、亀田梨紗のように新たに加わってくれる執筆者も得られ、読者さんも離れる方もいれば、新規講読してくださる方もいる、という感じです。

このメルマガと『SRサイタマノラッパー』10周年のことは、メルマガ読者さんであるロンペーさんがブログに書いてくれています。
感動しましたよ、私。
https://ronpe0524.tumblr.com/post/183437883798/%E6%98%A0%E7%94%BBsr


お別れのこと、を書かなければいけません。
一人は、私の映画に何度か出演してくれていた俳優から今春、「俳優を辞める」との連絡がありました。
決して飛び抜けて芝居がうまい俳優ではありませんでしたが、現場が好きで、ひとなつっこくて、今後が楽しみな俳優だったので、寂しくてなりません。 私自身の力不足も感じ、毎日やるせない気持ちでいっぱいです。
監督としてもっと何かしてやれなかったのか、と思うのですが、俳優を辞める決意をするにはさまざまな葛藤があったはずで、また今後の新たな人生が始まるはずでもあるので、まずはそっちを応援しなければ、と思っています。

もうひとりは『SRサイタマノラッパー』シリーズをずっと応援してくれていた方です。
ツイッターなどのアカウント名は、「地獄風景」さん。

地獄風景さんは、いつからか『SRサイタマノラッパー』を応援してくれるようになり、上映があるたびに劇場へ足を運び、イベントやライブがあるときにも頻繁に遊びに来てくれました。
『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』の撮影時には、出演もしてくれているはずです。

その地獄風景さんが亡くなりました。
出勤中の交通事故だったとのことです。
訃報は、『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』主演の奥野瑛太から、唐突にもたらされました。
この数年はなかなかお会いできなかったのですが、名前を聞いてすぐに顔が思い出されました。

お別れの会と告別式があるとのことだったので、何もできなくてもまずは供花を、と葬儀場に電話したところ、たまたまいらっしゃった妹さんと電話がつながりました。
「生前お世話になっており、『SRサイタマノラッパー』のキャスト・スタッフがいつも元気をもらっていました」
とお伝えしたところ、妹さんから思わぬ言葉がありました。
「兄は家では物静かなほうだったのですが、『SRサイタマノラッパー』が大好きで、よく家族にも話していました」

地獄風景さんは私たちの前ではいつも元気にはしゃいでおり、時に軽妙で、時に豪快で、なにより音楽を愛するやんちゃな男でした。
物静か、という側面があったとは想像できなかったのですが、おそらく私たちの知らない面があったのだと思います。
そもそも私は彼の本名すら知らず、いつも「地獄さん」と呼んでいました。

供花の手配を済ませ、お別れの会に行くと、たまたま来ていた奥野瑛太とばったり会いました。
すでにその前には、水澤紳吾と配島徹也(TEC)も行っていたようです。
もう言葉がありませんでした。
綺麗な顔の地獄風景さんを見たら、この10年のことがいろいろ思い出され、遠方のイベントまで足を運んでくれた彼の笑顔が鮮明に蘇ってきました。

ご家族に挨拶して外に出ると、もう奥野瑛太の姿はありませんでした。
もしいたら酒の一杯でも、地獄風景さんに献杯しつつ、と思ったのですが、二人だけで語り合ったら、さらに泣いてしまいそうなので、連絡もせず一人でうつむきながら、川越へ向かいました。
(その後、川越スカラ座さんで『ギャングース』の舞台挨拶があったんです)。

電車に乗ると、奥野から「すいません、こらえきれず先に出ました」と連絡。
会場で彼がずっと涙を拭いている姿は見ていたので、「オッケー」とだけ返信。
追って1時間後くらいに、「やっぱり帰れないので、水澤さんと新宿で飲んでます」との連絡。
「なんだよ、もっと早く連絡しろよ」と思ったのですが、川越スカラ座での舞台挨拶の時間が迫っており、ひとり歩き続けました。立ち止まったら涙がこらえきれなくなりそうで、雨が降る川越の中を喪服で歩き続けました。

享年38。
私やサイタマノラッパークルーの知らない顔があったはずです。
その一方で、サイタマノラッパーを心から愛してくれて、いつも勇気とパワーをくれる顔がありました。
あまりに早すぎる死なので、お別れをいう気持ちにはなりません。
彼が頻繁にイベントや上映に来てくれていたことへ、私はお礼をちゃんと言っただろうか。もっと彼と話すべきこと、共有できることがあったんじゃないか。 そう思うと、今でも苦しくなります。
地獄風景という名前とは逆に、おそらく天国の風景を見ているはずなので、最後に天国へ向かってお礼を。

「あなたのおかげで、サイタマノラッパークルーは大きな勇気をもらいました。
素晴らしい風景を見させてもらいました。
いつかまたサイタマノラッパーが再始動する時は、ぜひ一緒に」

今までこの言葉は軽々しい感じがして使ったことはなかったのですが、HIOHPOPやロックを愛し、そしてサイタマノラッパーを愛してくれた、地獄風景さんにはふさわしいかもしれません。
<R.I.P.>

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